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忘年会設定のの中間報告

 投稿者:神津陽  投稿日:2009年11月 2日(月)09時27分1秒
   この一年余の間に料理の上手かった大山君、新宿区役所の井上君、身体の大きかった森元君、中大学館委員長の高木君など続々と鬼籍に入りましたが、最も考えさせられたのが高槻君の身の処し方でした。各人の老後生活をどう段取りするかの算段派誰もが検討しているでしょうが、それとは別にそろそろ死んだら葬儀や昔読んだ本の処置や墓をどうするか等、そろそろ若年時のはみ出し者の身のけじめを考えておく時ですね。

 という次第で、11月5日の大久保「としちゃん」03-3365-5997での定例互助会で、参加者の言いたい放題で忘年会の日時と詳細案を検討し確定したいと考えます。例年に合わせた12月の土曜日案が強いですが、12・12第二土曜は大賛成の者も別件ある者もいます。今の所は第一土曜の12・5が最有力ですが、まとまらねば12・3木曜に戻る案もでています。

場所については気晴らしを兼ねて外の宴会場案もありますが、自主参加形式の縛りのゆるい互助会は、集合時間がバラバラで人数も読みにくく、二次会への移動も大変です。それなら融通の利くとしちゃんを借り切り、時間延長料込み、呑み放題4000円の昨年同様でよいとの案が強いですね。最大多数の合意で決めますので、都合が付く皆様は11月互助会に参加するか、難しい方は忘年会設定の日時や場所に関する意見を事前に出して下さい。

 11月互助会のあとに好き勝手に節度を持って注文する形式かコース料理にするかを含め、確定した忘年会案内を事務局より送付します。旧友で連絡しあって、早急に出欠を幹事を通して事務局に集中してください。念のためにメールでも案内を送付します。
 

ご無沙汰しています

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年10月25日(日)22時32分51秒
  ★そろそろ忘年会の話題も出ていますが、事務局では本年は「高槻修君追悼・互助会忘年会」の形で気分を引き締めて痛飲痛談しようと考えています。11月5日の大久保「としちゃん」での互助会で、言いたい放題で、忘年会の日時と詳細案を検討したいと思います。都合が付く皆様は参加して意見交換して下さい。

★年齢を重ねると時間の経つのが速くなると言いますが、時代や社会の流れと精神の歩みのズレが原因なのでしょうね。徐々に金はなくともフリーな時間となると予測していたのですが、そうは問屋が許さない。なぜか知らぬが外側からの難題が相次ぎ、妙に忙しいのも精神面では若さ維持の秘訣ですかね。おいおいその内情や考察や対策などは、可能な範囲でこの場所でも報告します。

★民主党政権の進行で様々の分野で問題が噴出し利害対立も浮上していますが、我々の経験から見れば透明度が高くなった分は、事態が読みやすくなりました。この分野は利害関係者には重大問題でしょうが、世捨て人に近い私には二義的な分野です。だがこれらも折に触れ付随的に述べて行きます。
 

上原生男君死去、お世話になりました。

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年10月 5日(月)16時02分58秒
  早朝に宮古島出身の詩人新城兵一氏から電話があり、上原生男君が亡くなったと言う。確か返還直前の1972年春に沖縄を訪ねた際に、私が吉本隆明さんから上原君を紹介され、上原君から新城氏を紹介されてからの付き合いだ。上原君はその後に叛旗派の沖縄討論集会にも、吉本さんや沖青同の仲里君とともに参加して戴き発言してもらった。

上原君は琉球大出身の詩人で、那覇市役所の保険部に勤めていた。島成郎さんが精神科医としての赴任先の沖縄で、当時の屋良県知事の息子が率いる県医師会から酷い苛めを受けていた際に、仕事分野で何かと島さんを応援していた。当時は評価が定まらなかった、沖縄独立運動にも関心を持っていたようだ。

  また私と同じ年代で少し対抗心を持っていたらしく、泡盛を呑みながらしきりと論戦を挑んできた。何しろ日本軍が、沖縄を戦場にして沖縄人を集団自決に追い込んだんだ。沖縄への差別の悲惨さや現地住民の反発は、一ヶ月くらいの現地調査で分かる訳がない。どこにでも米軍基地があり風俗営業は一大産業だが、先入観なく地元の夜の女と付き合えば沖縄の本音が分かると挑発もした。

  6月に会った際の仲原効君の話では、年長の川満信一さんや新川明さんは年を取って穏やかになったが、上原君や新城氏は沖縄の現代詩分野では粘り強く現役で活動している様子だった。最近は音信も途切れがちだったが、65歳の早世であり残念でならない。静岡大にいた弟君は今はどうしているだろうか、思い出すと気に掛かる。
 

秋ですね

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年10月 4日(日)11時05分26秒
  ★10月3日高槻修君の納骨式が行われました。親族と20年も連絡が取れていなかったので、この3年ほど足しげく行き来があった互助会メンバーも遺族の招きで参列しました。高槻君は小学校6年まで宇和島に住んでいましたので、故郷話にも花が咲きました。
 高槻君は互助会メンバーの中堅で60歳で死亡しました。気持だけ若い連中もおいおい還暦を経て、お迎えが来ることは必死です。互助会事務局の空き場所に運動資料収集所を設けて、高槻修資料もそこに納めます。遺族に処分を任せたくない人は生前納付も可能ですので、申し出て下さい。

★2016年オリンピック候補地はリオデジャネイロに決まり、東京、シカゴ、マドリッドは落ちました。南米初のオリンピック開催には意義があるが、先進大国のオバマ大統領や鳩山首相が大騒ぎしたのはお笑いでした。オリンピックを二度開催している都市は確かアテネとパリだけで、64年に開催した東京に強引に二度誘致を準備して勝ち目はない。膨大な準備費用のツケは誰が払うのでしょうかね。
 

10月1日は木曜会です。お忘れなく。

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年 9月28日(月)19時08分36秒
  ★いつも通り7時よりJR大久保駅前としちゃん03−3365−5997  です。私は6時からいます。無血革命とも言うべき民主党政権のプラス面、問題点などあれこれ話しましょう。タイ出張中だった上原、小山君なども参加します、世界的視点も検討しましょう。

★このところ大山秀雄、井上実、森元啓三、高木晴弘など同年代の活動家の葬儀が続きます。だが最も厳しい頃に行動や組織を共にした中枢メンバーとしては、その後の数奇な歩みも含めて高槻修君が最も気がかりな関係でした。高槻君の葬儀も終わり、高槻文庫の準備も進み、年末には追悼忘年会の企画も出ています、これもざっくばらんに話しましょう。
 

鳩山に首〆られた。

 投稿者:  投稿日:2009年 9月25日(金)21時33分41秒
  二酸化炭素排出規制のため、呼吸する人間の首を端から〆て回る姿を夢で見たのです。
これは正夢に違いありません。
自民党に任せれば経済難民にされ、
民主党に任せれば首を〆られる。
今こそ新左翼の出番だと思うのです。
 

昨今

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年 9月16日(水)15時31分35秒
  ★本日、民主党鳩山由紀夫内閣が成立した。何人か旧知の顔ぶれも含まれている。中大の学園闘争では民事法研究会で活躍した千葉景子が法務大臣となり、驚いてしまう。

★日本で最初の学生単独管理を勝ち取った中大学生会館の、初代管理運営委員長の高木晴弘の葬儀が終った。花輪が60本並び、式前着席者が100名いたから大きな葬儀の方だろう。一時は百キロもあったが、闘病でやせて死に顔派学生時代に近きなっていた。
 大きな町内会の役員や子供会や青少協の役員をやっていたが、私はそんな役割を評価しないことを知っていたのか、会うのは立川南口でなく北口の側だった。通夜の日は高木が行き付けだった西国立駅前の鳥勝で、旧友連中と痛飲して終った。
 

8・30ニュース二題

 投稿者:神津  投稿日:2009年 8月31日(月)19時38分8秒
  ★自民・公明ボロマケの予測どおり、今回総選挙で民主は308へ激増、自民は109へと激減、小泉チルドレンは全滅。宗教的組織力で常勝してきた公明党は委員長落選で地区投票区ゼロの惨状だ。
 この結果は明治以降続いてきた中央集権・官僚支配の基本構造の解体・再編への国民の判断を示しており、外から押し寄せた戦後改革以上の自覚的民主革命の始めと言えよう。これで衆参院のネジレ解消、米国交渉も対等化、学童・老人・医療・年金・介護など切り捨てられた社会保障の復活は確実だ。
 他方で官僚層の経費無駄使いから、自民党保守層と癒着してきた検察・警察体制をチェック。、不急不要の陪審裁判や、地デジ買替、スーパーでのレジ袋有料化の見直しなども期待される。
 民主党当選者の顔ぶれを見ても促成が多く、レールに乗るにはまだ時間が掛かるし、高速道無料化や、学童手当て一律配布などムダも多い。だがシステム透明化を前提にして、これまでの政治に対する無視やハスな構えは不要となり、どんどん物が言える環境変化は有難い。今後ダメなら変えればよいのだ。

★奇しくも民主党政権誕生が確定した8月30日に、ご遺族の了承とご協力もあり、18日に亡くなった高槻槻修君の遺品の政治資料関連の片づけが終了した。当分は互助会事務局に資料を保管し、高槻修文庫として活用して行きたいと考える。年末の互助会を高槻修追悼忘年会として開く案も出ている。
 

高槻修秘話

 投稿者:神津  投稿日:2009年 8月23日(日)18時31分31秒
   当日の急な連絡にも関わらず高槻修君の通夜は50名もの関係者が集まり、斎場の左右には叛旗互助会の花輪が並んだ。小山健君が我らの内の唐牛健太郎死すとの追悼文を書いたが、その中心軸はもう三十五年も前の記憶の数々だ。その点は通夜参加者の皆様も同様だろうから、ここでは私しか知らぬ話を書く。

 実はこの三〇年近く高槻君は行方不明の状態が続いていた。つい三年ほど前に、叛旗派解体以降三〇年を意識したのかどうかは分からぬが、突然に高槻から私の郵便振替口座に入金があった。そこには長い間の連絡不備を詫び、私の著書送付を申し込み、今後の指導をお願いしますと記されていた。

 その後、池袋の安呑み屋で会った。手を大きく振り回す話し方や、でかい頭や大柄で威圧的な体躯は昔のままだった。しかし衣類は上下ともに着のままと分かり、衿口は汗が取れぬのか赤黒く汚れ、靴は後ろ側を倒して履いている。おまけに顔は酒焼けで、歯が一本もなく、持ち物は昔ながらの大型紙バッグだけだった。

 まるで浮浪者じゃないかと言うと、金はあるんだが呑み代がかさんでねと笑う。暮らし振りを聞いてみると、印刷所に二〇年勤めてシルク印刷の仕上げ工で腕はよく、そこそこの給料はもらっている。また家はあるのだが子ども二人は独立し妻は親や兄弟の介護で実家に戻ることが多いので、会社近くの三畳の風呂もトイレもテレビもない安アパートで独り気ままにずっと暮らしているのだそうだ。

 酒の呑み方は昔と変わらず、つまみ類はどんどん頼むが手はつけず、ハイピッチで酒だけ浴びるように呑む。手付かずのつまみは私が食って店を出ると、一軒では収まらずハシゴ酒が続く。これはアル中の一歩手前だと事情を聞くと、池袋駅前で飲みつぶれて寝て二度も介抱強盗に持ち金を盗られたそうだ。

 それから丸三年間ほぼ毎月連絡があって、合計五〇回ぐらい呑み代相手持ちでよく会った。衣類や本は随分と渡し、随分と身きれいに変身した。相談の主軸の一つは自分の動きと重なった叛旗派の総括問題でアル。もう一つは家族対応の問題だったが、ここでは省略する。テレビは見ないが、模索舎や古本屋には通って資料は集めて読んで、ようやく考えがまとまり話が出来るようになったと言う。

 一年ほどして漸く精神状態も安定してきたので、2008年と2009年正月に日野の拙宅とその周辺で上原、今西、会沢、松井五などと呑んだ。2008年末の私の「中大1965〜68」出版記念会にも出席した。大久保の互助会例会にも二度出ていて、本人が言うには互助会復帰へのリハビリ途中だったのだ。

 叛旗の総括問題では叛旗<解体>なども全て読んでいて、三上、立花、生島らとの本筋の違いは明確だった。ただ中東地区独自雑誌発刊への署名が誤解を生んだ点では、不徳の致す所だと反省していた。
行き付けのカラオケ呑み屋の姉さんに頼んで、私の刊行物などはオークションでも買っていたようだ。

 高槻は叛旗解体・高橋克行下獄・東峰十字路裁判勝利の後は、一番近かった中部君はじめ叛旗派の活動家とは全て絶縁していた。高槻の宇和島士族出身の頑固さはよく分かる、私の息子も家出を宣言してから二〇年近く音信不通なのだ。酒を片手の高槻の沈思黙考から私への連絡も二〇年掛かっている。

 問題はその二〇年の闇だが、稼ぎがあって暮らせて呑めていれば、何をやっていても年月は経つのだ。高槻は五エ門に歯医者を紹介されてもついに行かなかった。何よりアル中が心配だったが、市販の痛み止めを大量に飲んで朝はシャキっと目覚めて会社は無休だと威張っていた。六月にどうも締まりが悪くなって小便も大便も回数が増えたと相談があったが、前立腺肥大だろうが大便の方は分からなかった。

 六月下旬に症状悪化し日大病院へ救急車で入り、即時入院だと告げられたそうだ。そこで私は息子さんへの連絡を勧め、一週間ほどして会社の近くの池袋病院に入院した。ガンだと告知されたときに母親の最期を思い出し、自分もガンで死ぬとは言っていたが、入院一カ月余での予測もせぬ死だった。

 第一回の手術は予測どおり前立腺ガンで、院長に棒を取るか玉を取るか両方でもよいかと聞かれたそうで、私は棒は残せと勧めて本人も納得しカタ金を選び手術はうまく運んだ。だがその直後に奥の大腸・直腸部にもガンがあり、これは人工肛門を付ける難手術となるので検討が必要との話だった。

 ところが院長の一存で七月下旬の手術が決まり、八月一五日には仕事復帰の予定だった。母の介護に宇和島に戻った私が高槻と電話で話したのは、人工肛門を付けたときまでだ。その後に腸閉塞となり、更なる転移が告げられ、これではダメだと家族が考えて一八日に転院を決めていたと言う。

 高槻の奥さんから一三日に病状が悪く転院予定だとの電話が入り、一八日に私から電話をしたら虫の知らせだったのか朝四時に死んだとの報告だった。すぐに南池袋斎場での葬儀予定のFAXが入って、慌てて奥さんが喪主の一九日夜の通夜、二〇日朝の告別式を各位に通知したしだいだ。

高槻修がアル中に近く好き勝手な浮浪者同然の暮らしだったことは、むろん家族も親戚も知っていた。だがガン入院で酒は抜け禁煙状態となり、逆に頭の回転は速く戻った。本人は無軌道な暮らしを痛く反省して、生活態度を改めると誓い、家族が人工肛門処置に便利なアパートも借り家具も揃えた所だった。

 奥さんの話では、私が「映画・連合赤軍」を批判して書いた「かくも無惨な青春!」が近頃では一番面白かったと言ったそうだ。高槻の親父は理科系の教員だったが長く中国に抑留されていて、宇和島で帰国者住宅に住んでいた高槻も古い左翼観に影響されていた部分もあったので、私もこれで安心した。

 高槻は頑固で家族ともぎくしゃくしていたが、入院後は急に話が通じやすくなったそうだ。また宇和島出身の兄弟姉妹とも音信不通状態だったが、入院後は全員と旧交復活したと聞く。最後の電話の折に私が「ガンが家族や親族との関係修復になるとは皮肉だな」と言ったが、これも満足だったかも知れない。 了
 

高槻修さんの思い出 小山健

 投稿者:転送  投稿日:2009年 8月21日(金)10時08分41秒
   昨日、2009年8月18日早朝4時に高槻修さんが亡くなった。組織名、仲代文人が死んだ。もっとはっきり言えば、私たちにとっての唐牛健太郎が死んだのだ。

 私が高槻さんと初めて会ったのは1969年4.28闘争の前々夜だった。高校時代から関西ブントに関わっていた私は、上野勝輝(後の赤軍派)からRG(共産主義突撃隊)の一員として上京せよとの指令を受け、大阪からナップザック1つで中大ブントを訪ねて中大に行った。しかし、当時中大がロックアウトで明治に亡命しているとのことで、明治大学の自治会のボックスに向かった。そこで詰襟姿の学生服を着て、謄写版でビラを作成している大人しそうな学生に出会った。みんな信じられないかも知れぬが、そのおとなしそうな生真面目な学生が高槻修さんだった。

 初めての東京で途方に暮れていた私に高槻さんは生協でごちそうをしてくれ、明治の学館でこれから総決起集会が始まるから参加するように言った。久保井三派系全学連副委員長のアジ演説(この演説で破防法適用)の後、部隊は東京医科歯科大学を占拠し、28日当日機動隊の壁を突破し、秋葉原から新橋へ 霞が関占拠へと向かった。これが私の東京デビュ−であり、最初に東京のブント活動家で知り合ったのが高槻さんであった。

 再び、高槻さんと出会ったのは、69年6月の伊東のアスパック粉砕闘争であった。その後、三多摩の立川にあった都立商短に入学した私は、大学で事務職員のアルバイト中であった神津さんの奥さんの文さんと知り合い、第二次ブント三多摩地区委員会で活動していた。当時すでに赤軍フラクと分裂状態にあった第二次ブントにあって、三多摩の部隊は、中大の代々木寮で中大の部隊と合流し、伊東へ向かった。総括集会中になだれ込んできた機動隊に三多摩の責任者、神津さんが逮捕され、脱ぎ捨てた中核派の白ヘルメットを高槻さんと一緒にたくさん袋詰めして赤ヘルメットに塗り替えた思い出もある。

 そして、7月のブント分裂のきっかけになった明治和泉校舎へ、神津さんの指示で高橋良彦( 後の情況派)の防衛隊に行ったら、高槻さんが先にいて、「塩見が来ない」ということで、みんなでタバコの自販機を壊したりしていた。その後、私は関西から上京した上野の再オルグで大菩薩事件の直前まで赤軍派に参加していた。10.21の戦闘団による蒲田決戦で高槻さんが逮捕された同時期には、自治会委員長と全闘委委員長を兼務していた私は、全学バリストの責任者として昭島署で最初の逮捕・留置生活を送っていた。12月昭島署を出て、学校に戻ると神津さんが来て、「三多摩も軍事組織を作ったから戻ってこい」と言われ、三多摩ブントに戻った。

 翌70年6月の叛旗派結成時には遊撃隊の一員として戦旗派との内ゲバに明け暮れたが、高槻さんと再会したのは翌年6月頃の砂川闘争であった。「おう、久しぶり」と言った高槻さんは、69年のうぶな学生ではなく、拘置所生活が人間を変えたのかもしれないが、ずぶとく頼もしい革命家に変身していた。71年夏 私は都立商短・立短自衛隊進駐阻止闘争委員会を組織し、大衆団体の一員として、阻止共闘会議の行動隊長を務め、飛行機を飛ばせないように反戦鉄塔を建設していた。高槻さんも上原らと鉄塔建設作業によく来てくれた。

 9月砂川反戦鉄塔も出来上がり、当時叛旗派の組織部門の責任者であった立花薫氏(電通大)より、三里塚第二次収用阻止闘争の部隊指揮をとるように指示され、9月12日頃三里塚の地に向かい、9.16東峰十字路戦闘、三警官死亡に出くわした。のちに裁判では叛旗派は三警官死亡と直接関わっていないことが示された。だが当時の東峰十字路参加部隊(出発順に青年行動隊50名・日中20名・人民連帯10名・プロ学同100名・叛旗派100名(あと10名ほどの情況派が付いてきた)・解放派200名・フロント150名・労学連200名・京学連100名 全体約900名)全員は大きく動揺した。日本革命運動史上一挙に三人もの警察官が死に、50名近い警察官が失明、重傷を負った事件は明治初期の秩父困民党以来のことであったからだ。

 動揺する指揮者の私に、急いで現地に来た三上治氏から「ケン(当時の私の組織名)、歴史は1人の個人の頑張りによって突破することもある」と言われ、私は再度9.20公団焼き打ち闘争も指揮継続した。三警官死亡に関わった9.16闘争参加部隊を入れ替える判断となり、代わりに当時叛旗の最精鋭部隊(中大・三多摩中心)を率いて三里塚へやってきたのは高槻さんであった。闘争後、私は無期懲役か死刑を覚悟した。

 早くも、9月28日に別件で私に逮捕状(東峰十字路の現場に血染めのタオルが落ちていて、そのタオルが叛旗活動家のA子さんの実家のものという報道が日経新聞に出て、その関係で私が現場に関係していると警察はつかんだ。ちなみにそのA子さんは2年後私の妻になる)が出され、学校・自宅にガサ入れがあり、間一髪、電通大寮に逃げ込んだが、そこでも何度もガサ入れがあり、その都度、寮の屋根裏に逃げ込んだが、72年1月、寮全体が要塞化している中大代々木寮に逃げ込むことになった。

 同時に71年11.19新宿交番焼き打ちで叛旗派に大量の逮捕者が出ており、逮捕状が出ていた、高槻さんと上原と私の1年以上にわたる地下生活が始まる。代々木寮での生活は「楽しい」の一言であった。3人で風呂に行き、食事し、毎晩中大や三多摩、南部の諸君もきて、酒盛りをしたり、歌を歌ったりの生活であった。特に高槻さんの赤木圭一郎の「男の怒りをぶちまけろ」は一番人気であった。機動隊のガサ入れは、朝方5時頃なので、毎晩朝5時に就寝し、12時頃起きだし、三人共、それぞれの地区の学対であったので、毎日学校へ行った。

 高槻さんと上原は中部地区へ、私は西部・北部・埼玉地区へといぐあいに。早稲田・学習院・埼玉大・立教大・駒沢・武蔵工大・日大文理・東大駒場等々が私の担当した大学だ。叛旗派は地下生活が閉じられ、妄想化していくことを危惧し、半地下生活。つまり活動し続けながら逃亡するという方針であったので、逃亡生活も明るかった。代々木寮での高槻さんとの思い出はきりがないが、2つだけエピソ−ドを挙げておこう。

 1つ目は、高槻さんと上原、藤原などと代々木寮の食堂で朝食を採っているとき、近くに来た理工学部の解放派が「高槻。お前ブントで偉くなったらしいなぁ」とからかった。高槻さんは、そいつら3人を「みんな手足をもっとけ」といって、ボコボコにし、血へどを吐かせたことがある。「高槻さん、死んじゃうからやめましょう」とぃって必至で止めた記憶がある。その夜から代々木寮にいた解放派は全員が東大駒場へ逃亡した。

 次に72年2月あさま山荘事件の時である。高槻さんと上原と私は劇研の島村の部屋でテレビに釘付けであった。特に高槻さんは「何で俺たちはあっちにいないんだ」としきり言っていた。高槻さんは叛旗だが、赤軍に幻想があった。私は元赤軍派で、彼らの大言壮語、内部関係の出鱈目さ、大衆運動の指導部からの召還、革命の昂揚期という時代判断等々、十分に分かっていたので全く幻想がなかった。だが中大では最左派を自認していた高槻さんは少し違ったようで、クリアするのに時間がかかったようだ。

 その後お互い逮捕され、東京拘置所にいた時、何度か出会った。高槻さんはふてぶてしく、やくざのように看守を従え、「おう」と声をかけてくれた。
 出獄後、73年に川口君殺害事件で対カクマルとの激闘が始まっており、代々木寮で毎日のように高槻さんの指導でゲバルト訓練を行った。6.14早大、私を含む叛旗の最精鋭部隊64人が逮捕され、それが叛旗らしい最後の戦いとなるとは当時は夢にも思わなかった。

 11月千葉刑務所から出獄した私は中大代々木寮に駆け付けた。「神田川」の替え歌にもある「24人の突撃隊」に挨拶するためであった。麻布の圭、力丸・三多摩のエンちゃん・節男・トロさん・明学のデロ等々、指揮は中大の上原と青学の横目がとるとのことだった。 今から考えれば、戦艦大和の特攻みたいなものであった。叛旗派5年の戦いで、神津・三上氏の2大指導者と年長の救対の比留間先生以外で逮捕・保釈中以外のものは皆無に近い状態であった。上から秀人・高橋克っちゃん、立花、石井、柳、深沢、譲二、高槻、私、上原、春地、エンちゃん、武田、備前など。叛旗派は万身創痍であった。

 挨拶した私は「すぐ後に続くからWACと生死を共にしてカクマルから早稲田を解放するように」と訴えた。夜半、叛旗が早稲田に突っ込まないことにしたと上原と横目から告げられた、どうも上のブントが渋っているとのこと。無傷で逮捕されてもいいブントの指導部と言えば、電通大の垣内・生島・中大の会沢、三多摩のハルチ、事務局の氷山ぐらいしかいなかったが、会沢さんは消耗して、ハルチは「もう1人ブントから出てくれ」といい、垣内・生島はいやがっている等々の話があり、後で聞いたが、神津さんが「俺がいく」と主張したらしいが、三上が大反対したとのことだった。

 真相は当事者しか分らぬが、私は上原と横目に「最後まで叛旗を信じてくれたWACを見捨てるのか」と激しく詰め寄ったことを記憶している。こtのときほど獄中にいた高槻さんが側に居てくれればと思ったことはない。当時叛旗の一部には早稲田が焦点だといっても1大学の話ではないか。党派の政治生命を賭けるのはおかしいといった意見もあったようだ。また私が早稲田担当の学対でもあったので、それで突っ込めと頑張っているというと受け止める人もいた。

 しかし、その後の叛旗派の歴史を見れば、早稲田解放闘争の11月の最終局面で叛旗派の生命は終わったのだ。大衆運動の指導部を自認し、大衆と共にあろうとし、大衆の共同体契機にこだわり続けた叛旗派が土壇場でWACを見捨てた段階で叛旗派は終わったのである。(続く)
(2009年8月19日告別式で一部配布分に加筆した)
 

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