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当日の急な連絡にも関わらず高槻修君の通夜は50名もの関係者が集まり、斎場の左右には叛旗互助会の花輪が並んだ。小山健君が我らの内の唐牛健太郎死すとの追悼文を書いたが、その中心軸はもう三十五年も前の記憶の数々だ。その点は通夜参加者の皆様も同様だろうから、ここでは私しか知らぬ話を書く。
実はこの三〇年近く高槻君は行方不明の状態が続いていた。つい三年ほど前に、叛旗派解体以降三〇年を意識したのかどうかは分からぬが、突然に高槻から私の郵便振替口座に入金があった。そこには長い間の連絡不備を詫び、私の著書送付を申し込み、今後の指導をお願いしますと記されていた。
その後、池袋の安呑み屋で会った。手を大きく振り回す話し方や、でかい頭や大柄で威圧的な体躯は昔のままだった。しかし衣類は上下ともに着のままと分かり、衿口は汗が取れぬのか赤黒く汚れ、靴は後ろ側を倒して履いている。おまけに顔は酒焼けで、歯が一本もなく、持ち物は昔ながらの大型紙バッグだけだった。
まるで浮浪者じゃないかと言うと、金はあるんだが呑み代がかさんでねと笑う。暮らし振りを聞いてみると、印刷所に二〇年勤めてシルク印刷の仕上げ工で腕はよく、そこそこの給料はもらっている。また家はあるのだが子ども二人は独立し妻は親や兄弟の介護で実家に戻ることが多いので、会社近くの三畳の風呂もトイレもテレビもない安アパートで独り気ままにずっと暮らしているのだそうだ。
酒の呑み方は昔と変わらず、つまみ類はどんどん頼むが手はつけず、ハイピッチで酒だけ浴びるように呑む。手付かずのつまみは私が食って店を出ると、一軒では収まらずハシゴ酒が続く。これはアル中の一歩手前だと事情を聞くと、池袋駅前で飲みつぶれて寝て二度も介抱強盗に持ち金を盗られたそうだ。
それから丸三年間ほぼ毎月連絡があって、合計五〇回ぐらい呑み代相手持ちでよく会った。衣類や本は随分と渡し、随分と身きれいに変身した。相談の主軸の一つは自分の動きと重なった叛旗派の総括問題でアル。もう一つは家族対応の問題だったが、ここでは省略する。テレビは見ないが、模索舎や古本屋には通って資料は集めて読んで、ようやく考えがまとまり話が出来るようになったと言う。
一年ほどして漸く精神状態も安定してきたので、2008年と2009年正月に日野の拙宅とその周辺で上原、今西、会沢、松井五などと呑んだ。2008年末の私の「中大1965〜68」出版記念会にも出席した。大久保の互助会例会にも二度出ていて、本人が言うには互助会復帰へのリハビリ途中だったのだ。
叛旗の総括問題では叛旗<解体>なども全て読んでいて、三上、立花、生島らとの本筋の違いは明確だった。ただ中東地区独自雑誌発刊への署名が誤解を生んだ点では、不徳の致す所だと反省していた。
行き付けのカラオケ呑み屋の姉さんに頼んで、私の刊行物などはオークションでも買っていたようだ。
高槻は叛旗解体・高橋克行下獄・東峰十字路裁判勝利の後は、一番近かった中部君はじめ叛旗派の活動家とは全て絶縁していた。高槻の宇和島士族出身の頑固さはよく分かる、私の息子も家出を宣言してから二〇年近く音信不通なのだ。酒を片手の高槻の沈思黙考から私への連絡も二〇年掛かっている。
問題はその二〇年の闇だが、稼ぎがあって暮らせて呑めていれば、何をやっていても年月は経つのだ。高槻は五エ門に歯医者を紹介されてもついに行かなかった。何よりアル中が心配だったが、市販の痛み止めを大量に飲んで朝はシャキっと目覚めて会社は無休だと威張っていた。六月にどうも締まりが悪くなって小便も大便も回数が増えたと相談があったが、前立腺肥大だろうが大便の方は分からなかった。
六月下旬に症状悪化し日大病院へ救急車で入り、即時入院だと告げられたそうだ。そこで私は息子さんへの連絡を勧め、一週間ほどして会社の近くの池袋病院に入院した。ガンだと告知されたときに母親の最期を思い出し、自分もガンで死ぬとは言っていたが、入院一カ月余での予測もせぬ死だった。
第一回の手術は予測どおり前立腺ガンで、院長に棒を取るか玉を取るか両方でもよいかと聞かれたそうで、私は棒は残せと勧めて本人も納得しカタ金を選び手術はうまく運んだ。だがその直後に奥の大腸・直腸部にもガンがあり、これは人工肛門を付ける難手術となるので検討が必要との話だった。
ところが院長の一存で七月下旬の手術が決まり、八月一五日には仕事復帰の予定だった。母の介護に宇和島に戻った私が高槻と電話で話したのは、人工肛門を付けたときまでだ。その後に腸閉塞となり、更なる転移が告げられ、これではダメだと家族が考えて一八日に転院を決めていたと言う。
高槻の奥さんから一三日に病状が悪く転院予定だとの電話が入り、一八日に私から電話をしたら虫の知らせだったのか朝四時に死んだとの報告だった。すぐに南池袋斎場での葬儀予定のFAXが入って、慌てて奥さんが喪主の一九日夜の通夜、二〇日朝の告別式を各位に通知したしだいだ。
高槻修がアル中に近く好き勝手な浮浪者同然の暮らしだったことは、むろん家族も親戚も知っていた。だがガン入院で酒は抜け禁煙状態となり、逆に頭の回転は速く戻った。本人は無軌道な暮らしを痛く反省して、生活態度を改めると誓い、家族が人工肛門処置に便利なアパートも借り家具も揃えた所だった。
奥さんの話では、私が「映画・連合赤軍」を批判して書いた「かくも無惨な青春!」が近頃では一番面白かったと言ったそうだ。高槻の親父は理科系の教員だったが長く中国に抑留されていて、宇和島で帰国者住宅に住んでいた高槻も古い左翼観に影響されていた部分もあったので、私もこれで安心した。
高槻は頑固で家族ともぎくしゃくしていたが、入院後は急に話が通じやすくなったそうだ。また宇和島出身の兄弟姉妹とも音信不通状態だったが、入院後は全員と旧交復活したと聞く。最後の電話の折に私が「ガンが家族や親族との関係修復になるとは皮肉だな」と言ったが、これも満足だったかも知れない。 了
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