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昨今

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年 9月16日(水)15時31分35秒
  ★本日、民主党鳩山由紀夫内閣が成立した。何人か旧知の顔ぶれも含まれている。中大の学園闘争では民事法研究会で活躍した千葉景子が法務大臣となり、驚いてしまう。

★日本で最初の学生単独管理を勝ち取った中大学生会館の、初代管理運営委員長の高木晴弘の葬儀が終った。花輪が60本並び、式前着席者が100名いたから大きな葬儀の方だろう。一時は百キロもあったが、闘病でやせて死に顔派学生時代に近きなっていた。
 大きな町内会の役員や子供会や青少協の役員をやっていたが、私はそんな役割を評価しないことを知っていたのか、会うのは立川南口でなく北口の側だった。通夜の日は高木が行き付けだった西国立駅前の鳥勝で、旧友連中と痛飲して終った。
 

8・30ニュース二題

 投稿者:神津  投稿日:2009年 8月31日(月)19時38分8秒
  ★自民・公明ボロマケの予測どおり、今回総選挙で民主は308へ激増、自民は109へと激減、小泉チルドレンは全滅。宗教的組織力で常勝してきた公明党は委員長落選で地区投票区ゼロの惨状だ。
 この結果は明治以降続いてきた中央集権・官僚支配の基本構造の解体・再編への国民の判断を示しており、外から押し寄せた戦後改革以上の自覚的民主革命の始めと言えよう。これで衆参院のネジレ解消、米国交渉も対等化、学童・老人・医療・年金・介護など切り捨てられた社会保障の復活は確実だ。
 他方で官僚層の経費無駄使いから、自民党保守層と癒着してきた検察・警察体制をチェック。、不急不要の陪審裁判や、地デジ買替、スーパーでのレジ袋有料化の見直しなども期待される。
 民主党当選者の顔ぶれを見ても促成が多く、レールに乗るにはまだ時間が掛かるし、高速道無料化や、学童手当て一律配布などムダも多い。だがシステム透明化を前提にして、これまでの政治に対する無視やハスな構えは不要となり、どんどん物が言える環境変化は有難い。今後ダメなら変えればよいのだ。

★奇しくも民主党政権誕生が確定した8月30日に、ご遺族の了承とご協力もあり、18日に亡くなった高槻槻修君の遺品の政治資料関連の片づけが終了した。当分は互助会事務局に資料を保管し、高槻修文庫として活用して行きたいと考える。年末の互助会を高槻修追悼忘年会として開く案も出ている。
 

高槻修秘話

 投稿者:神津  投稿日:2009年 8月23日(日)18時31分31秒
   当日の急な連絡にも関わらず高槻修君の通夜は50名もの関係者が集まり、斎場の左右には叛旗互助会の花輪が並んだ。小山健君が我らの内の唐牛健太郎死すとの追悼文を書いたが、その中心軸はもう三十五年も前の記憶の数々だ。その点は通夜参加者の皆様も同様だろうから、ここでは私しか知らぬ話を書く。

 実はこの三〇年近く高槻君は行方不明の状態が続いていた。つい三年ほど前に、叛旗派解体以降三〇年を意識したのかどうかは分からぬが、突然に高槻から私の郵便振替口座に入金があった。そこには長い間の連絡不備を詫び、私の著書送付を申し込み、今後の指導をお願いしますと記されていた。

 その後、池袋の安呑み屋で会った。手を大きく振り回す話し方や、でかい頭や大柄で威圧的な体躯は昔のままだった。しかし衣類は上下ともに着のままと分かり、衿口は汗が取れぬのか赤黒く汚れ、靴は後ろ側を倒して履いている。おまけに顔は酒焼けで、歯が一本もなく、持ち物は昔ながらの大型紙バッグだけだった。

 まるで浮浪者じゃないかと言うと、金はあるんだが呑み代がかさんでねと笑う。暮らし振りを聞いてみると、印刷所に二〇年勤めてシルク印刷の仕上げ工で腕はよく、そこそこの給料はもらっている。また家はあるのだが子ども二人は独立し妻は親や兄弟の介護で実家に戻ることが多いので、会社近くの三畳の風呂もトイレもテレビもない安アパートで独り気ままにずっと暮らしているのだそうだ。

 酒の呑み方は昔と変わらず、つまみ類はどんどん頼むが手はつけず、ハイピッチで酒だけ浴びるように呑む。手付かずのつまみは私が食って店を出ると、一軒では収まらずハシゴ酒が続く。これはアル中の一歩手前だと事情を聞くと、池袋駅前で飲みつぶれて寝て二度も介抱強盗に持ち金を盗られたそうだ。

 それから丸三年間ほぼ毎月連絡があって、合計五〇回ぐらい呑み代相手持ちでよく会った。衣類や本は随分と渡し、随分と身きれいに変身した。相談の主軸の一つは自分の動きと重なった叛旗派の総括問題でアル。もう一つは家族対応の問題だったが、ここでは省略する。テレビは見ないが、模索舎や古本屋には通って資料は集めて読んで、ようやく考えがまとまり話が出来るようになったと言う。

 一年ほどして漸く精神状態も安定してきたので、2008年と2009年正月に日野の拙宅とその周辺で上原、今西、会沢、松井五などと呑んだ。2008年末の私の「中大1965〜68」出版記念会にも出席した。大久保の互助会例会にも二度出ていて、本人が言うには互助会復帰へのリハビリ途中だったのだ。

 叛旗の総括問題では叛旗<解体>なども全て読んでいて、三上、立花、生島らとの本筋の違いは明確だった。ただ中東地区独自雑誌発刊への署名が誤解を生んだ点では、不徳の致す所だと反省していた。
行き付けのカラオケ呑み屋の姉さんに頼んで、私の刊行物などはオークションでも買っていたようだ。

 高槻は叛旗解体・高橋克行下獄・東峰十字路裁判勝利の後は、一番近かった中部君はじめ叛旗派の活動家とは全て絶縁していた。高槻の宇和島士族出身の頑固さはよく分かる、私の息子も家出を宣言してから二〇年近く音信不通なのだ。酒を片手の高槻の沈思黙考から私への連絡も二〇年掛かっている。

 問題はその二〇年の闇だが、稼ぎがあって暮らせて呑めていれば、何をやっていても年月は経つのだ。高槻は五エ門に歯医者を紹介されてもついに行かなかった。何よりアル中が心配だったが、市販の痛み止めを大量に飲んで朝はシャキっと目覚めて会社は無休だと威張っていた。六月にどうも締まりが悪くなって小便も大便も回数が増えたと相談があったが、前立腺肥大だろうが大便の方は分からなかった。

 六月下旬に症状悪化し日大病院へ救急車で入り、即時入院だと告げられたそうだ。そこで私は息子さんへの連絡を勧め、一週間ほどして会社の近くの池袋病院に入院した。ガンだと告知されたときに母親の最期を思い出し、自分もガンで死ぬとは言っていたが、入院一カ月余での予測もせぬ死だった。

 第一回の手術は予測どおり前立腺ガンで、院長に棒を取るか玉を取るか両方でもよいかと聞かれたそうで、私は棒は残せと勧めて本人も納得しカタ金を選び手術はうまく運んだ。だがその直後に奥の大腸・直腸部にもガンがあり、これは人工肛門を付ける難手術となるので検討が必要との話だった。

 ところが院長の一存で七月下旬の手術が決まり、八月一五日には仕事復帰の予定だった。母の介護に宇和島に戻った私が高槻と電話で話したのは、人工肛門を付けたときまでだ。その後に腸閉塞となり、更なる転移が告げられ、これではダメだと家族が考えて一八日に転院を決めていたと言う。

 高槻の奥さんから一三日に病状が悪く転院予定だとの電話が入り、一八日に私から電話をしたら虫の知らせだったのか朝四時に死んだとの報告だった。すぐに南池袋斎場での葬儀予定のFAXが入って、慌てて奥さんが喪主の一九日夜の通夜、二〇日朝の告別式を各位に通知したしだいだ。

高槻修がアル中に近く好き勝手な浮浪者同然の暮らしだったことは、むろん家族も親戚も知っていた。だがガン入院で酒は抜け禁煙状態となり、逆に頭の回転は速く戻った。本人は無軌道な暮らしを痛く反省して、生活態度を改めると誓い、家族が人工肛門処置に便利なアパートも借り家具も揃えた所だった。

 奥さんの話では、私が「映画・連合赤軍」を批判して書いた「かくも無惨な青春!」が近頃では一番面白かったと言ったそうだ。高槻の親父は理科系の教員だったが長く中国に抑留されていて、宇和島で帰国者住宅に住んでいた高槻も古い左翼観に影響されていた部分もあったので、私もこれで安心した。

 高槻は頑固で家族ともぎくしゃくしていたが、入院後は急に話が通じやすくなったそうだ。また宇和島出身の兄弟姉妹とも音信不通状態だったが、入院後は全員と旧交復活したと聞く。最後の電話の折に私が「ガンが家族や親族との関係修復になるとは皮肉だな」と言ったが、これも満足だったかも知れない。 了
 

高槻修さんの思い出 小山健

 投稿者:転送  投稿日:2009年 8月21日(金)10時08分41秒
   昨日、2009年8月18日早朝4時に高槻修さんが亡くなった。組織名、仲代文人が死んだ。もっとはっきり言えば、私たちにとっての唐牛健太郎が死んだのだ。

 私が高槻さんと初めて会ったのは1969年4.28闘争の前々夜だった。高校時代から関西ブントに関わっていた私は、上野勝輝(後の赤軍派)からRG(共産主義突撃隊)の一員として上京せよとの指令を受け、大阪からナップザック1つで中大ブントを訪ねて中大に行った。しかし、当時中大がロックアウトで明治に亡命しているとのことで、明治大学の自治会のボックスに向かった。そこで詰襟姿の学生服を着て、謄写版でビラを作成している大人しそうな学生に出会った。みんな信じられないかも知れぬが、そのおとなしそうな生真面目な学生が高槻修さんだった。

 初めての東京で途方に暮れていた私に高槻さんは生協でごちそうをしてくれ、明治の学館でこれから総決起集会が始まるから参加するように言った。久保井三派系全学連副委員長のアジ演説(この演説で破防法適用)の後、部隊は東京医科歯科大学を占拠し、28日当日機動隊の壁を突破し、秋葉原から新橋へ 霞が関占拠へと向かった。これが私の東京デビュ−であり、最初に東京のブント活動家で知り合ったのが高槻さんであった。

 再び、高槻さんと出会ったのは、69年6月の伊東のアスパック粉砕闘争であった。その後、三多摩の立川にあった都立商短に入学した私は、大学で事務職員のアルバイト中であった神津さんの奥さんの文さんと知り合い、第二次ブント三多摩地区委員会で活動していた。当時すでに赤軍フラクと分裂状態にあった第二次ブントにあって、三多摩の部隊は、中大の代々木寮で中大の部隊と合流し、伊東へ向かった。総括集会中になだれ込んできた機動隊に三多摩の責任者、神津さんが逮捕され、脱ぎ捨てた中核派の白ヘルメットを高槻さんと一緒にたくさん袋詰めして赤ヘルメットに塗り替えた思い出もある。

 そして、7月のブント分裂のきっかけになった明治和泉校舎へ、神津さんの指示で高橋良彦( 後の情況派)の防衛隊に行ったら、高槻さんが先にいて、「塩見が来ない」ということで、みんなでタバコの自販機を壊したりしていた。その後、私は関西から上京した上野の再オルグで大菩薩事件の直前まで赤軍派に参加していた。10.21の戦闘団による蒲田決戦で高槻さんが逮捕された同時期には、自治会委員長と全闘委委員長を兼務していた私は、全学バリストの責任者として昭島署で最初の逮捕・留置生活を送っていた。12月昭島署を出て、学校に戻ると神津さんが来て、「三多摩も軍事組織を作ったから戻ってこい」と言われ、三多摩ブントに戻った。

 翌70年6月の叛旗派結成時には遊撃隊の一員として戦旗派との内ゲバに明け暮れたが、高槻さんと再会したのは翌年6月頃の砂川闘争であった。「おう、久しぶり」と言った高槻さんは、69年のうぶな学生ではなく、拘置所生活が人間を変えたのかもしれないが、ずぶとく頼もしい革命家に変身していた。71年夏 私は都立商短・立短自衛隊進駐阻止闘争委員会を組織し、大衆団体の一員として、阻止共闘会議の行動隊長を務め、飛行機を飛ばせないように反戦鉄塔を建設していた。高槻さんも上原らと鉄塔建設作業によく来てくれた。

 9月砂川反戦鉄塔も出来上がり、当時叛旗派の組織部門の責任者であった立花薫氏(電通大)より、三里塚第二次収用阻止闘争の部隊指揮をとるように指示され、9月12日頃三里塚の地に向かい、9.16東峰十字路戦闘、三警官死亡に出くわした。のちに裁判では叛旗派は三警官死亡と直接関わっていないことが示された。だが当時の東峰十字路参加部隊(出発順に青年行動隊50名・日中20名・人民連帯10名・プロ学同100名・叛旗派100名(あと10名ほどの情況派が付いてきた)・解放派200名・フロント150名・労学連200名・京学連100名 全体約900名)全員は大きく動揺した。日本革命運動史上一挙に三人もの警察官が死に、50名近い警察官が失明、重傷を負った事件は明治初期の秩父困民党以来のことであったからだ。

 動揺する指揮者の私に、急いで現地に来た三上治氏から「ケン(当時の私の組織名)、歴史は1人の個人の頑張りによって突破することもある」と言われ、私は再度9.20公団焼き打ち闘争も指揮継続した。三警官死亡に関わった9.16闘争参加部隊を入れ替える判断となり、代わりに当時叛旗の最精鋭部隊(中大・三多摩中心)を率いて三里塚へやってきたのは高槻さんであった。闘争後、私は無期懲役か死刑を覚悟した。

 早くも、9月28日に別件で私に逮捕状(東峰十字路の現場に血染めのタオルが落ちていて、そのタオルが叛旗活動家のA子さんの実家のものという報道が日経新聞に出て、その関係で私が現場に関係していると警察はつかんだ。ちなみにそのA子さんは2年後私の妻になる)が出され、学校・自宅にガサ入れがあり、間一髪、電通大寮に逃げ込んだが、そこでも何度もガサ入れがあり、その都度、寮の屋根裏に逃げ込んだが、72年1月、寮全体が要塞化している中大代々木寮に逃げ込むことになった。

 同時に71年11.19新宿交番焼き打ちで叛旗派に大量の逮捕者が出ており、逮捕状が出ていた、高槻さんと上原と私の1年以上にわたる地下生活が始まる。代々木寮での生活は「楽しい」の一言であった。3人で風呂に行き、食事し、毎晩中大や三多摩、南部の諸君もきて、酒盛りをしたり、歌を歌ったりの生活であった。特に高槻さんの赤木圭一郎の「男の怒りをぶちまけろ」は一番人気であった。機動隊のガサ入れは、朝方5時頃なので、毎晩朝5時に就寝し、12時頃起きだし、三人共、それぞれの地区の学対であったので、毎日学校へ行った。

 高槻さんと上原は中部地区へ、私は西部・北部・埼玉地区へといぐあいに。早稲田・学習院・埼玉大・立教大・駒沢・武蔵工大・日大文理・東大駒場等々が私の担当した大学だ。叛旗派は地下生活が閉じられ、妄想化していくことを危惧し、半地下生活。つまり活動し続けながら逃亡するという方針であったので、逃亡生活も明るかった。代々木寮での高槻さんとの思い出はきりがないが、2つだけエピソ−ドを挙げておこう。

 1つ目は、高槻さんと上原、藤原などと代々木寮の食堂で朝食を採っているとき、近くに来た理工学部の解放派が「高槻。お前ブントで偉くなったらしいなぁ」とからかった。高槻さんは、そいつら3人を「みんな手足をもっとけ」といって、ボコボコにし、血へどを吐かせたことがある。「高槻さん、死んじゃうからやめましょう」とぃって必至で止めた記憶がある。その夜から代々木寮にいた解放派は全員が東大駒場へ逃亡した。

 次に72年2月あさま山荘事件の時である。高槻さんと上原と私は劇研の島村の部屋でテレビに釘付けであった。特に高槻さんは「何で俺たちはあっちにいないんだ」としきり言っていた。高槻さんは叛旗だが、赤軍に幻想があった。私は元赤軍派で、彼らの大言壮語、内部関係の出鱈目さ、大衆運動の指導部からの召還、革命の昂揚期という時代判断等々、十分に分かっていたので全く幻想がなかった。だが中大では最左派を自認していた高槻さんは少し違ったようで、クリアするのに時間がかかったようだ。

 その後お互い逮捕され、東京拘置所にいた時、何度か出会った。高槻さんはふてぶてしく、やくざのように看守を従え、「おう」と声をかけてくれた。
 出獄後、73年に川口君殺害事件で対カクマルとの激闘が始まっており、代々木寮で毎日のように高槻さんの指導でゲバルト訓練を行った。6.14早大、私を含む叛旗の最精鋭部隊64人が逮捕され、それが叛旗らしい最後の戦いとなるとは当時は夢にも思わなかった。

 11月千葉刑務所から出獄した私は中大代々木寮に駆け付けた。「神田川」の替え歌にもある「24人の突撃隊」に挨拶するためであった。麻布の圭、力丸・三多摩のエンちゃん・節男・トロさん・明学のデロ等々、指揮は中大の上原と青学の横目がとるとのことだった。 今から考えれば、戦艦大和の特攻みたいなものであった。叛旗派5年の戦いで、神津・三上氏の2大指導者と年長の救対の比留間先生以外で逮捕・保釈中以外のものは皆無に近い状態であった。上から秀人・高橋克っちゃん、立花、石井、柳、深沢、譲二、高槻、私、上原、春地、エンちゃん、武田、備前など。叛旗派は万身創痍であった。

 挨拶した私は「すぐ後に続くからWACと生死を共にしてカクマルから早稲田を解放するように」と訴えた。夜半、叛旗が早稲田に突っ込まないことにしたと上原と横目から告げられた、どうも上のブントが渋っているとのこと。無傷で逮捕されてもいいブントの指導部と言えば、電通大の垣内・生島・中大の会沢、三多摩のハルチ、事務局の氷山ぐらいしかいなかったが、会沢さんは消耗して、ハルチは「もう1人ブントから出てくれ」といい、垣内・生島はいやがっている等々の話があり、後で聞いたが、神津さんが「俺がいく」と主張したらしいが、三上が大反対したとのことだった。

 真相は当事者しか分らぬが、私は上原と横目に「最後まで叛旗を信じてくれたWACを見捨てるのか」と激しく詰め寄ったことを記憶している。こtのときほど獄中にいた高槻さんが側に居てくれればと思ったことはない。当時叛旗の一部には早稲田が焦点だといっても1大学の話ではないか。党派の政治生命を賭けるのはおかしいといった意見もあったようだ。また私が早稲田担当の学対でもあったので、それで突っ込めと頑張っているというと受け止める人もいた。

 しかし、その後の叛旗派の歴史を見れば、早稲田解放闘争の11月の最終局面で叛旗派の生命は終わったのだ。大衆運動の指導部を自認し、大衆と共にあろうとし、大衆の共同体契機にこだわり続けた叛旗派が土壇場でWACを見捨てた段階で叛旗派は終わったのである。(続く)
(2009年8月19日告別式で一部配布分に加筆した)
 

訃報・8月18日、高槻修君60歳で死す

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年 8月18日(火)19時23分6秒
  ★69〜72年の中大全中闘・代々木寮・新聞会・書くサークル活動家で、高槻修の名を知らぬ者はない。 反帝戦線のリーダーとして時にはゴリカンスキーに、あるいはひょうきんに、常に面白ジョークを飛ばし、常に先頭で闘ってきた。
★ガンに蝕まれていると分かって入院してから、一カ月余あまりに早い死であった。黙祷。

  葬儀は神式で、通夜が8月19日6時〜7時。告別式は8月20日10時〜11時。
 会場はともに、東京都豊島区南池袋4−25―2
 南池袋斎場 03−5396−2873
(JR大塚駅から下の早稲田行き都電で、雑司が谷で下りて4分。有楽町線で東池袋下車8分)
 喪主は覚えている人も多いと思いますが、妻の高槻真佐子さんです。
 

  夏季時評・アホは死ななきゃ直らない!

 投稿者:神津陽  投稿日:2009年 8月 6日(木)10時39分9秒
   アメリカは恐慌克服のメドも立たぬが、チェコでのオバマ大統領の核使用国としての核撲滅宣言は立派だった。自民は安全保障問題での民主の弱腰を批判しアメリカ追随に躍起だが、そのレベルは冷戦時代の残影だ。クリントンの電撃訪問で北朝鮮は確保中の米国二女性を釈放したが、日本の拉致家族は進展なし。日本は相手にされていないとの事実認識がまず重要だろう。

 そんな日本ではどうにも止まらない酷い事態が、全国を席巻している。滞在している宇和島では、衆議院選と市長選も市議選も同日なので候補者ばかりが浮き足立っている。衆院で目立つのは民主の自転車隊で、自民は地元では声も聞かない。市長選は例にもれず地元派・土建派・漁夫の利の若手で、争点比較の場もない。市議選は立候補支援署名と戸別訪問でうんざりだ。

 田舎のドタバタ状態に関わらず、政権交代の流れは動かない。自民離党の渡辺喜美がみんな党を立ち上げるが、反自民・反民主の第三極では目論見がミエミエ。ドタバタ大騒ぎの県知事連中も地方分権への注目を集めただけ。情実選挙より政策論争の方がよいが、どんな政権のどんな政策が通っても、官僚がますます越え太る本職優先、ボランティア依存を直すのが第一だ。

 都道府県制下の国家による郷村支配が、日本を官僚天国にしたのだ。それまでは町や村の英才は地元に戻ったのだが、国家秩序の浸透により逆に故郷を見下すことになる。官僚支配の基本は国税徴収と配分システムであり、そこで公選知事の座に何度でも天下り官僚が出張る。地元充実こそが課題なのに、統制強化の道州制案に全面批判が出ぬのは疑問である。

 どんな地方の社会基盤も官僚統制と交通網整備と情報社会化によりズタズタに切り裂かれ、若者にも格差が拡大している。知事選で政治の芸能化は顕著だが、逆に芸能界にも社会の膿が溜まっているようだ。この膿は金満化した夫を増長させ、子供を抱える女性に負担を押し付けて進行している。こんなことなら結婚なんかしたくないと女性が決意しても不思議ではない。

 人気のあった酒井法子の失踪が話題だが、操作に立ち会った目前で夫の覚醒剤使用が発覚したのだから家出くらい当然だ。夫婦でどちらがどう稼ごうと自由だが、この偽サーファーの夫はこっそり渋谷で何をしていたんだ。酒井に経済力がありすぎたとも言えるが、神田うのや西川史子ほどアホウじゃない。よい家族ゴッコを目指すなら、顔や金での男選びがまずかった。

 ノリピーの影に隠れたが、見てくれツッパリ勘違いの押尾学のエクスタシー所持はもっと悪質だ。半年も不倫関係の銀座ホステスが同室で急死し、薬は女にもらった、違法だとは知らなかった、初めて使用とごまかし、後始末もレコード会社に任せて逃げている。こんなチャラチャラ男をスターに祭りあげたレコード会社も共犯なのに、契約解除で縁切りを図っている。

 日本の政権交代は必至だが、それは単なる糸口に過ぎない。根本から変えねばならぬのは、国民の自立的生活を統制する国家システムの撤廃であり、官僚の地元への奪還だ。ともかく休日には街に出て農山漁村の現状を見て、汚い居酒屋で庶民の雑談を聞いて見るがよい。そこではどうも政治家や官僚の育て方が間違ったようだ、今後は勝手にやるぞとの声が渦巻いている。
 

異常気象で困ったものです

 投稿者:神津陽  投稿日:2009年 8月 1日(土)15時46分46秒
  ☆宇和島に来てから、晴天がありません。明日あたりは期待しているのですが、、、

☆図書新聞8月1日発売(8月8日)号、1〜3面に間違いなく出ています。
今と学生の頃の写真が出ていますので、いまさらの年度差を感じます。
 

緊急連絡です

 投稿者:l神津陽  投稿日:2009年 7月26日(日)14時06分51秒
  ☆下記の図書新聞の長編インタビュー掲載は8月1日発売号になりました。問い合わせがありましたが、夜間では動けず大雨で動けず連絡が遅れました、申し訳ありません。

☆「兎の耳」でご存知の方も多い宇和島和霊大祭は22〜24日開催でした。その間は不思議と雨も降らず、県人寮の見学会の連中との縁でじっくり三日間を過ごしました。
 

皆様ごきげんよう

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年 7月20日(月)00時45分31秒
  ★図書新聞7月25日発売号の<六〇年代・七〇年代を検証する>シリーズで、(元中大全中闘書記長)として登場します、長編インタビューの聞き手は小嵐九八郎氏です。なにしろ大学時代の写真を殆んど残してなくて、漸く新宿御苑で母が撮った写真が出てきました。乞うご期待、、大書店で買うか、図書館で見てください。

★東京は暑いですね、しかも湿気が多いのでたまりません。しばらく母の介護を理由に四国に帰ります。 11日の出版記念会で1968〜70年の叛旗派結成前史の希望が多かったですが、まだ資料が整いません。そこで前より準備を進めていた「関係のかくめい」にともかくアタックすることにしました。その前書き部分の草案を「閑日閑話」に掲載しておきます。この手の原稿は突き放して客観的に書けないので気が重いのですが、これも乗りかかった船だし、言い出しっぺの試練を甘受します。

★メールを日々チェックする環境ではないので、急ぎの連絡は携帯電話にお願いします。ご存知の方は」携帯メールへの連絡でも結構です。
 

国家批判の大風が吹いているのでは?

 投稿者:神津 陽  投稿日:2009年 7月13日(月)01時17分43秒
  ★少し頭が動くようになってニュースを見ると、東京都議会選挙で民主圧勝・自民劣敗は確実な情勢のようです。この間に複数の政党関係者と話しましたが、麻生アホ内閣にお笑い東国原の処遇批判も加わっての政権交代・自公失墜は確実だと判断しました。麻生が居座るほど支持率は低下するが、たとえ代表の顔を変えても大風は変わらない。野党側は何もせず自民の断末魔を見ていれば勝てるのです。

有権者の実効性ある選択としては民主に投票集中するのは当然で、候補者が若くても経験不足でもよいのです。選んだ議員が役立たずだったら、次には変えればよいだけだ。政治・政治家はその程度の位置や人種であるとの判断の拡大は、まさに全共闘ならではの国家批判意識の浸透ですね。自民内の麻生下ろしや東国原迎合の勘違いは、次の衆議院選挙では再起不能に近いダメージとなるでしょう。蟹工船やマルクスの読者増加を勘違いした共産党の政党独裁の愚も、国民は読み抜いています。

さて11日の会には麹町中学全共闘で一世を風靡した保坂展人も出席との連絡があり、その折には私も12日都議選の話をしようと思いましたが欠席となり失念しました。保坂は今まで自民党石原伸晃が連勝してきた杉並の東京8区に選挙区変えしましたが、今回の選挙結果を見れば傲慢な石原都知事批判の声も加わって善戦しそうです。

★ さて11日の出版記念会でも、あれこれと国家批判・生活優位の民意変化が伺えそうです。
資料集旧版には当時の叛旗派の責任者だった三上治が解説を書いていて今回の増補決定版にも転載を了解しているため、11日に出席は確実と思われました。そこで先輩の中からは、11日は旧叛旗派の三上・神津の歴史的和解の場となるとの発言も出ていました。蔵田計成はじめ淵上太郎・由井格・佐藤秋雄氏など憲法9条改悪反対の会のブント系中心メンバーが出席し、会のなかでの三上治・塩見孝也の思想的対立の話題も出ました。他方で若者側の席では安保ブントや新左翼ボスがいま何で9条だけにこだわるのか、9条改悪反対が重要なら政権交代に集中すべきではないか等の声も聞こえました。

若者が資料集でのSECT6部分を丁寧に読めば、元党派の先輩連中が大恐慌下の生活危機打破より憲法9条改悪阻止との市民的政治課題を重視していると見えておかしくない。だが9条改悪阻止を掲げて6・14でデモ指揮をやった塩見も、国会前座り込みに熱心だった三上治も来なかった。私は「極私的全共闘史」などで六八年初の中大学費値上げ白紙撤回時の塩見の党派的永続バリケード方針の犯罪性を指摘し、今回の資料集の福地氏との対談では三上が作ったSECT6メンバーだったとの神話のウソにも触れた。そんな経緯から11日の会の案内状は送ったが、私からは彼らに出欠のダメ押し確認はしなかった。三上も塩見も出欠返答をせず自主的に欠席したがそれは何を意味するか、あちこちで話題となった。

そのほか福地茂樹氏と中大で縁の深かっら自治会関係者が多く、JCA出版や明学大や慶応大や専修大グループや東大全共闘メンバーも参加。中大の私の前の執行部の山本英幸委員長とは40年ぶりに話をした。だが最後まで互助会メンバーと一緒に執念深く残ったのは慶応大や駿台などの若手であり、6日前の森元啓三葬儀で旧交を温めた中大社学同関係の十余名の殆んどは体力疲れか欠席だった。こんなところにも世代交代が進んでいるのだろうか?
 

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