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  1. 元日野市市民アンチ 新撰組介護福祉士(1)
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 今年の夏は、祟られていたか?

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 8月17日(土)13時18分23秒
編集済
   この夏の初めの7月10日に長年の盟友の上原克己が死んだと知ったが、中々実感が湧かなかった。
医者が立ち会わぬ変死で検視後も冷凍保存されていたのだが、8月9日の現地火葬で一息ついた。
だが本人が家族・親族や菩提寺や墓との絶縁を望んでいたので、深奥にその課題がずしりと残った。
それらの死後の雑事は自分の親や寺との関連では些事と扱っているが、座りが悪いのだ。

 宇和島を出てから50余年いろいろとやりくりし毎年一カ月ほど帰郷していたが、天候としては
今年が最悪だった。長梅雨に加えからりと晴れぬ日々が続き、お盆にはまた台風が寄ってきた。
夏に海に入ると冬に風邪を引かぬとは昔からの母の持論だったが、川はウナギ籠など掛けたが今
だに海に出ていない。ともかく残る一日は、宇和島沿岸の好きなサンゴ礁で潜るつもりだ。

 海の不順続きで上原の祟りではないかとの冗談も出たが、もっと痛かったのは大型の甘夏柑だ。
古くからの狭い下町に魚屋が今も8軒残っているが、対応する八百屋2軒にも懇意の店がある。
正規発送品と別にちょっと落ちたり筋や模様が入ったB級品を、大ビニール袋30個ほどを300円
で毎年購入している。種もなく甘く日持ちもするので、おやつ代わりに常食している。

 これは上原のモットーの<拾う・貰う・タダ>の典型だなと考えて、徹底路線で10個ほど皮を
剥いてつまみに、しこたま安ビールを飲み、焼酎に移ったら異変が起きた。食い合わせ・呑み合
わせが悪かったのか、突然吐いてしまった。中途で終わらぬ性なので、結局は食ったもの・呑ん
だもの・胃液まで全部を吐き切って、服も全部を洗ってからあれこれ考えた。

 海に行かぬ分を親父塾の元塾生の川端自主屋台を一杯飲み屋席に変えて、多くの知己を得た。
アル中気味・生活保護寸前・大船渡からの移転女性などで、評価が高かったのが「関係のかく
めい」「人生終活」論だった。「流行歌の精神史」もゆっくり話題となり、ビンボージャズ50
年喫茶店や、伝説の教組委員長宅や、図書館移転先や、地方新聞新支社長やへ、呑み友達は増
える一方た。

 8月24日土曜日には、大久保トシチャンで上原克己偲ぶ会が行われる。会費があるのも可笑し
いがそれも冗談でよいだろう。共同墓所が出来たら一緒に入れてくれと西氏に頼まれているので、
私は24日偲ぶ会の上原の骨を希望者にも配り、残りは持ち帰る予定だ。私は上原のように地元の
親族・墓所と縁切りしてはないが、墓参者が来る可能性がある共同墓所にも入る積りである。
 
 

故上原克己8月9日西伊豆町現地火葬日程

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 8月 7日(水)11時27分17秒
編集済
  ★8月9日(金曜)正午~現地集合・直送火葬、骨上げ3時頃終了。納骨先未定。二次会未定。

 <互助会の火葬参加者は、8月24日の東京大久保追悼会用に、写真撮影をお願いします>


★静岡県西伊豆町斎場 主催西伊豆町(町会。シルバー・互助会有志参加)

所在地 〒410-3512 静岡県賀茂郡西伊豆町一色1959-2  地図を見る

最寄り駅 河津駅  / 蓮台寺駅  / 稲梓駅

アクセス 伊豆箱根鉄道「修善寺駅」から50km 車で75分

お問い合わせ先 0558-52-0719
 

上原君を偲ぶ会のご案内

 投稿者:小山 健  投稿日:2019年 8月 2日(金)11時05分28秒
  上原君を偲ぶ会のご案内
 去る7月10日未明、私達の長年の友人であった上原克己、本名山森慎吾君が亡くなりました。突然の訃報で驚かれた友人も多かったと思いますが、西伊豆の自宅で、テレビも電気も点けっぱなし、こたつ机の上には食べかけのカツオの刺身一切れと酒が転がっていて上原は横向き倒れて死んでいました。傍らにはタイ語の辞書と繰り返し読み返したであろう擦り切れた「叛旗派武装闘争小史」が置いてありました。

仕事の打ち合わせに来た昔のハルチ君の元にいて上原とも同僚で地元に帰郷し、大工をしていた真野君が倒れている上原を発見して私に連絡がありました。まことに上原らしい死に方でした。下田警察松崎分署に運ばれた上原はかかりつけの医者も駆けつけ検死の結果事件性はなく、1月に発病した劇症肺炎の体力疲労による多臓器不能、心臓発作とのことでした。

 1月の劇症肺炎発病後、大森の中大の大先輩宅て養生していた上原は、3月末西伊豆に帰りリハビルに励んでいました。毎日隣の浜までのトレッキングで体力づくりに励んでいた上原は5月頃電話で話したら咳き込むことが多く完全に治っていないと思われ病院に行くことを勧めました。生活の方は上原の人柄もあり1年ぐらい大丈夫なぐらいのカンパが集まり、治療に専念するように言っていました。

 6月6日の互助会には生活の足しになればと節男君が下田の別荘の修繕依頼をした関係もあり上原が上京参加しました。当日の夜私の家に泊まった上原は咳もでず、酒も飲まず、養生して、回復しているように見えました。無理をせずのんびりと養生することを勧め、7月12日いつもの節男、ハルチ、松井、えんちゃん、炭谷と私の6人で西伊豆に行くからと話していました。9月には私が海外に行くことを告げると自分も行きたいと言っていたので、身体が回復すれば現地で合流しょうと語っていました。

 7月9日も12日の最終人数の確認の電話があり、民宿の女将さんも人数の確認に来られたのにと驚いていました。とりあえず11日は埼玉に来ていた炭谷君に緊急に西伊豆に行ってもらい私達5人は12日上原の安置されている下田警察松崎分署に向かいました。上原と対面してその死を実感しました。係りの人に上原の身上を伝え、親族とは義絶状態であり、遺体を私達に渡して欲しい旨を伝えました。係りの人は戸籍を辿り、親族と話し合い、私の申し入れを責任をもって伝えるとのことでした。10日以上調べてもらった結果お兄さんと警察が話し合い、遺体を私達に渡してくださることになりました。
12日急を聞いて駆け付けた神津さん、会澤さん、松井総長、文さんと私達で民宿大家荘で深夜まで上原の思い出話ををしました。地元のシルバ-の方々も来て下さり、上原の人望の厚さを語ってくださいました。
 西伊豆町と松崎の警察が連携して上原の葬儀の手配をしてくださり、富山のお兄さんの了解も得て、来週私や妻、ハルチ君、会澤さん家族、えんちゃん、節男君等と地元の真野君やシルバ-の方々で上原の野辺送りをすることになりました。遺骨は私に下さる手配となり、24日当日にはみんなの元持ち帰ります。

 もう48年近く前、私と上原は比留間さんの伝手で、中大の高木さんや新井さんが勤務していた杉並区役所でアルバイトをしていました。そのとき行き倒れの遺体があり、手繰っていくと高崎経済大の教授の父親と解りました。遺体の引き取りを伝えたら「その遺体は私達親子を捨てて共産党の中核自衛隊で地下活動し行方不明になった父で引き取らない」と言われました。私達2人は自分達の末路を想い、前々から上原の骨は俺が拾うと言ってきました。
 上原の生き様についてはみんなも知っていると思いますが、全共闘・叛旗派の行為の共同性に殉じた「連帯を求めて孤立を恐れず」を体現した我が叛旗派の誇りとすべき立派な生き方だったと思います。上原は最後まで前衛党神話と吉本自立思想を嫌悪して、行為の共同性に固執していました。
 私も上原も来世を信じることはありませんが、「後の世も また後の世も めぐりあはむ 染む紫の雲の上まで」という辞世の句を思い出しました。本当に上原と50年に及ぶ人生を最後まで共に生きてこれた楽しかった日々に感謝しつつ偲ぶ会の呼びかけ文に代えたいと思います。生前上原とおつきあいのあつた方々のご参加をお待ちしています。
                     2019年8月5日  小山健
            上原君を偲ぶ会
日時 2019年8月24日(土) 5時 全席貸切
場所 大久保駅前 「居酒屋 としちゃん」
   03-3365-5997 JR総武線大久保駅・新宿側出口30秒。
会費 4.000円 (余ったお金は伊豆上原宅の撤去費用に使わせて頂きます。
           尚、生活困窮者は配慮しますので幹事に申し出てください)
上原君を偲ぶ会 代表幹事 小山 健  090-4378-5776
         幹事  会澤伸憲 090-3516-0638・ 高橋節男 090-3319-1925
             松井治憲 090-7948-1499・デロ(菅野) 080-2163-9678
                       砂田治洋 090-3908-4451・水落則夫 090-3006-4059
            神津陽 090-5564-8483
 

全共闘思想の終活は?

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 7月31日(水)12時02分30秒
編集済
  ★8月1日木曜は大久保互助会ですよ、身ぎれいにして言いたい放題参加ください!

「全共闘思想の終活は家・墓との対峙ではないか?}神津陽

 本能と意識を併せ持つ人間は誰でも他者と関係して生き、よりよく関わりたい欲望を持つ。
私的日常が底辺にあるも他者との接点を探し、困った人を助け仲間意識を持ちたいと考える。
戦後混乱期は生活復興へ向けた飢えの復興が、60年安保闘争前後は東西冷戦下での国家の自
立が原動力だが、全共闘期は各自の納得の行く生き方の持続が軸なので課題は一生物だった。

 全共闘世代も50年経てば誰も70歳を過ぎ、同世代の死に直面し我が死を考えざるを得ない。
マルクスが女中と関係して産んだ男子をエンゲルスが我が子と偽り対処した秘話も、新井将
敬を朝鮮に帰れと追い詰めた石原慎太郎が愛媛県警官だった祖父の軌跡を追ったが墓寺も探
せなかった話もある。旧左翼の転向末路は、おれも先祖墓参りで非を詫びる再生話だった。

 昨今の大学生の尊敬する人物の第一位は両親には驚くが、全共闘周辺の既婚女性の三分の二
は夫の墓に入りたくないとの報道には胸が痛かった。旦那とは結婚したが家と結婚した訳では
ないとの主張は、全共闘以降の女性側の継続的多数意見で、私は私家版「関係のかくめい~恋
愛篇」も出している。私は田舎の主のない家で、自分の墓をどうするかを考えている。

 先に挙げた上原克己は生涯を掛けて全共闘の流儀を生きたと評価し得るが、それ故に死後も
我々に未解決の家と墓の課題を残した。彼は若くして全共闘的思想を体得し、やりたいように
生きやり抜く意思を継続し行動してきた。世界中を放浪し、様々な仕事にチャレンジし、言
語学習を積み各地の庶民と付き合い、多くの自然を相手の趣味に打ち込み、考えを広げた。

 タイのサムイ島が気に入り、八畳二間ほどの新家屋を有志のカンパ協力を経て建築したが、
先達と言うべき千葉さんの看病に協力し見送った後は日本に戻った。修善寺近くのグリーン・
リバーでは様々な音楽企画を進め信頼も得たが所詮は他人の経営への協力だった。最後にたど
り着いたのが西伊豆の月一万円ハウスで、シルバーセンターの中心メンバーに押されていった。

 こんな様々な経験変化も全共闘や党派闘争経緯で親兄弟と断絶し、誰をも頼らず周辺環境を
引き寄せて得た可能な最良進路の選択の積み重ねだった。他からは無謀とも見える生活スタイ
ルであっても、しばらくの継続の後は環境を我が手中に得る経験蓄積は見事だった。上原は富
山市の普通の家庭に育ち、<拾う・貰う・タダ>の生活モットーは放浪生活の産物なのだ。

 周辺情報には敏感だったが総花的視野も新奇物関心もなく、何度も考え詰めて自分にとって
必要な思想のコアのみ摂取した。きだみのるじゃないが好きな物には最接近し、朝晩と食べ続
けてそうめんには茗荷だと納得し他へ移った。だがそんな体力とエネルギー自慢の上原に歪み
を与えたのは誰をも引き込む年齢加算の罠で、泣き言は言わぬが老齢化も認めなかった。

 これが最期だと覚悟を決めて訪れた今冬のタイ旅行から帰国後の体調悪化は同行の炭谷君し。
か報告はできぬが、本人が自分の無理を一番知っていたはずだ。だが救急車による入院と急性
肺炎による長期入院の結果を、上原は直視せず軽易に乗り越えようとした。退院後は自己流の
登山用リハビリを重ねて仕事復帰を焦ったようだが、その点が急死の背景だとも思われる。

 上原遺体は7月10日に高橋君の下田別荘修繕工事の同僚の真野君が、上原自宅を訪ねて発見
し、大家の民宿経営者と一緒に警察に連絡した。そこで医師が立ち会わず死亡診断書のない上
原は変死者として警察で解剖され、事件性はないと判断された。法規や習俗ではどんな経緯が
あろうと死者の遺体管理や葬儀主宰や財産相続は親族の権利とされる。

 上原は親族と絶交状態だったが、警察は粘り強く調査しようやく上原の兄貴を探しだした。
だが富山の兄貴はガンで入院中で、西伊豆へは行けず、葬儀主宰も出来ず、友人葬ができるの
なら頼みたい、骨の管理も任せるとの返答だった。管轄が西伊豆町に移ったが、上原の遺体管
理、葬儀日程確定・案内、棺桶から運送費、坊主を呼ぶか、寺はどうするか、何も決まってい
ない。また8月下旬の東京での上原克己を偲ぶ会の予定なども未定だ。

 上原の社会復帰は軽易には叶わないと考えた互助会事務局は古い友人連中にカンパ要請を出
し、上原の人徳も加わってか想定を上回る入金があったようだ。だが上原は浄土真宗の土壌の
故か富山人気質や親族経験も加わったのか、この互助会各位からのカンパ金をまったく使わず
神棚に祀っていた。つまり上原は死んだ当日まで、自分が死ぬとは思っていなかったのだ。

互助会の行事ではないが上原救援カンパ要請は大きな反響を呼び、日々のやりくりからの寄
金も旧縁確認の大口カンパも含めかなりの額が集まった。だが正規の相続人がいないから国庫
金に組み込まれるのだと杓子定規に受け止めると、カンパ者の上原救援の意思も、可能なら葬
儀費用への充当を考えただろう上原の推定遺志もまったく生かされない結果となる。

 通常の葬儀は親族が進行管理を行うが、上原は相続人のはずの親族兄弟とずっと絶交している。
葬儀費用は確実に発生するのに、誰がどのように支払うのか? 相続人の兄は葬儀主宰せず事
実上は相続放棄している。相続人が相続放棄した遺体の葬儀や埋葬は管轄町で行い無縁墓地に
葬るのか、それで上原名のカンパ金は国庫没収となれば誰か喜ぶのだろうか?

 とすれば西伊豆町への遺体管轄を好機に、地元の真野君や上原宅の大家や最期のタイ旅行に
同行した炭谷君やカンパ金呼び掛け人の健君や大口カンパ者などが、町へカンパ金の葬儀費用
などへの流用要請をした方がよいのではないか?親族と絶縁した上原の事情を知るが故にカン
パ金は集まったのだし、カンパ金主旨を生かす努力はダメ元でもやるべきだと私は考える。

 上原の預金通帳は没収されているが、預金の殆どが互助会事務局が呼び掛けた後のカンパ金
であることは容易に立証できる。また上原の葬儀を主宰せず友人葬に任せるとの兄貴の伝言を
拡大解釈もできる。カンパ金が伸びるとの情報を聞いて、きちんとコピーして個別に礼状を送
れとの連絡を考えたが、細かすぎるかと考えて中断したのが悔やまれる。ともかくカンパ金の
運用はカンパ者の意思を推測し優先すべきでないかと、後日のために提案しておきたい。

世界や国家や社会に関して意見や不満を述べるのは各自の勝手であるが、実際に少しでも変え
て行くことはマルクスじゃないが難しい。資本主義社会で生きるには金が要るが、金は全てで
はない。金欠の者には千円は大金だが、金持ちには一万円も小銭だ。まして死んでしまえば巨万
の富も何の価値もない。上原克己の死と残されたカンパ寄金を相続人しか処理し得ぬ矛盾は、
上原が投げ掛けた課題だ。叛旗互助会もNPO化とか共同墓地を考える時なのか? 私も考え中だ。

★<宇和島でのアハハ暮らし> 金融庁の老後2000万円必要報告があったためか、1カ月も
宇和島でどんな暮らしをしているんだとの質問が多い。確かに親も死んで無人の実家で所
用を減らしてボケーと過ごしているが、従前の地元暮らしの延長とは少し違う。

 私は教員家庭の核家族の長男で、余裕もないが貧しくもない普通の暮らしだった。今
の2000万なんてしゃらくさいとのドン底の豊か暮らし追及のベースは、おそらくタイの
バンコクの貧民街で毎年一カ月暮らした経験から得た後天的楽天性の産物だ。飛行機便
の価格格差チョイスによる一カ月の長逗留も、宇和島はバンコク代わりで自己納得だ。

 何しろ無人の家からはネズミもゴキブリも逃げ出し、池のカエルの効用でカもいない。
昼は扇風機を使うが、クーラーのリモコン紛失中だが南北アミ戸なので夜も苦はない。
業務センターで鶏皮1キロ280円、豚バラ1キロ480円、うどんも酒も格安だ。だが我が家
直近の八百屋では小玉スイカ200円。トマト10個100円、甘夏類もタダ同然。朝5時からの
魚屋ではどの刺身も安いが、各種剥き身100円、テンプラ70円が私の定番だ。

 パソコンもあればテレビもあるし、宇和島ミシュランには友人の3店も入っている。
雨続きの後は直近で花火を満喫し、自転車を駆使し海行脚の準備中だ。親父の教え子が
キイマンの素人居酒屋は全盛。同年代の苦労人ほか、認知症看病18年、アル中入院、DVD
被害から生保まで数多いが、関係のかくめい論は、お祓い人を抜いて大人気だ。

 てなところにノーシードの宇和島東が高校野球で愛媛県優勝。権力とカネと広告まみれ
松山牽制では皆が喜んでいるが、カンパ圧力と甲子園バスは誰もが敬遠している。別に体
調不良個所もなく頭も動いているので、8月後半には帰京予定である。






 

上原克己の死に際して

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 7月14日(日)12時30分37秒
編集済
   7月10日上原克己の遺体が、西伊豆の自宅で発見された。タイから帰国後の肺炎での緊急入院
後に肺が8割も損傷した自分の体調異変は熟知していただろうが、昨今の死を考えていたとは思
えない。S君の下田別荘大修復を一緒に引き受けた大工のM君が、打ち合わせのため夕方5時40分
に上原宅を訪ねると、電気もテレビも付いたまま、机上につまみと焼酎コップが並び、上原は
横に倒れ、口からアブクを吹いたまま目を閉じていたそうだ。

 最低限の緊急連絡を経て、12日には様々な分野で上原と深い接点を持つ11人が西伊豆の上原
宅裏に参集。東京からだと渋滞時にかかれば6時間も費やす僻地で、たまたま遺体見届けの一人
の役回りを担った民宿女将の協力で、まだ先の予定も何も決まらぬ上原君追悼大宴会となった。
昼過ぎから飲んでいるのに思い出話は尽きず、各自は心の内で徐々に上原克己の死を確認した。

 私は全共闘の魂の行方を50年考えてきたが、上原は終生を掛けて全共闘の魂を生きて来た。
居酒屋など各種アルバイトから・高山での電線架設・山小屋番人・世界放浪・名峰登山・タイ
のサムイ島での自宅建設・移住・伊豆修善寺でのペンション経営補助・異端フォークコンサー
ト実施・外壁塗装・伊豆での全分野シルバー生活、常に話題満載の人生だった。語学に堪能で
歌も上手く、ウインドウサーフィンのボードは日野の拙宅で二枚も預かっていた。

 こんな身体頑丈伝説が浸透しているのか、先の「上原克己の死」ブログに嘘だろう?フェイ
クじゃないかとの連絡が届いた。だが私は第一発見者M君の案内で上原宅を訪問し、横倒しとな
った位置を確認し、口からあぶくを吹いた吐瀉残物を見て写真に撮った。また変死扱いの警察
署安置室で、冷蔵状態の上原の顔を見た者もいる。上原克己は実際に死んだのだ。

 医者が立ち会っての死亡診断書のない死者は、変死者として警察署で解剖される。事件性なし
と現場で判断しても、田舎警察の分庁舎の連休目前の作業は遅い。上原は愛郷心は強かったが、
父を見送った後は蒸発した母にも、妻子を捨てて愛人とスナック経営に走った兄貴とも会わぬ
ばかりか、何十年も絶好状態だった。だが警察は遺体返還は家族優先でと、戸籍調査を続ける。

 上原は終生に渡り<拾う・貰う・タダ>を実践し、月一万円の今の住居にも財産なんかあり
ゃしない。だが上原は最期のタイ旅行でバンコクの変貌ぶりにショックを受け、帰国後に足腰
が立たなくなり救急車で緊急入院した。同時期に同じ症状で救急車に乗った私はインフルエン
ザですぐ帰宅したが、上原は劇症肺炎で集中治療が20日も続き10キロも体重が減少した。

 集中治療室から出た上原は禁酒禁煙・継続リハビリによる体力増強が課題だったが、本人は
何も稼げぬ状況が嫌で仕事復帰を願った。肉体主義の上原は体力には自信があり、蒲田で部屋の
空いているM宅での一カ月の復帰準備中も、登山流のリハビリを続けた。下田のS君別荘の徹底
補修が初仕事だったが、体重は徐々に戻ったが、体調復帰は思わしくなかったようだ。

 緊急入院先の近くの小山健が、そんな様子を見かねて上原の闘病生活を支えるカンパ金募集を
始めた。上原は肉体主義者だが自分の到達度を他に誇ることなく説教も強制もしない性格で縁が
あって嫌う人はなく、多くのカンパが瞬時に集まった。警察に押さえられたカンパ金通帳を家族
だと言うだけで兄貴に引き渡すことは、何十年も絶縁した本人の意思に反し私は認めない。

 上原は富山市出身の1951年生まれで、68歳の死だった。富山県人寮に住み、熟慮の末に叛旗派
に結集し、またたく間に中大代々木寮の主とも言える存在となり上原のペンネームを名乗った。
どんな闘争も最前列で戦いながら一度も捕まらず、早稲田で逮捕された後は党派解体に同意した。
78年管制塔占拠後に落ち込んだ戦旗派若手に慕われ、様々なところでアドバイスも行った。死期
を悟った荒岱助から後は宜しくと伝言が来たが、戦旗派は自然消滅で終わった。

 よくもてた男だが、男女関係の生活パターンはうまく作れなかった。生涯に一度の大恋愛に恵
まれ相思相愛が終わったあとは、どの女との付き合いも浅くなった。その分は余技に打ち込んだ
形だが、どれも身体が元手のものばかりだ。日野の拙宅での新年会に毎年ケンと一緒に参加し、
最後の私の家出の折には黙々と荷物をまとめてくれた。呑み疲れて私が寝込んだ後は前妻とも話
込んだようで、彼女は今回も軽四バンで西伊豆に来て朝帰りし男に勝る元気に皆が感心した。

 神津陽塾のタイ紀行で示したように、上原はタイで臨島の千葉さんのガン治療から臨終までを
看取った。その折に死期の予兆を得たとのことだが、私も昨秋あたりから上原の死の予感を得て
いた。沼津でも蒲田でも西伊豆に戻ってからでも、どうも肝心要のところで空威張りが見えた。
地元のシルバーでも人気者だが、思うように動かなくなった我が身体に愛相が尽きたようだ。

 実は上原は高円寺のバーテルの最も若い常連の一人で、晩年の上坂テルさんのアパートの隣室
に数年住んでいた。その部屋の近くに住んでいた眉山亭へもよく通い、一緒に帰っていたようだ。
34年頑張ったその眉山亭が20日に閉店すると伝えると上原は沼津からカツオを送ると言い、開店
じゃないので無理するなと再伝言すると拍子抜けしたようだった。だが私が眉山亭に出向くと伝
えた7月10日の同じ時間に、カツオをつまみに残したまま上原の遺骸が発見されたのだ。

 伊豆のグリーンリバーの管理補助の頃から音楽好きは分かっていたが、上原は高校時代は水泳
の国体選手の他方で放送部員だったそうだ。そう言えば眉山亭の看板近くに、村下孝蔵の初恋や
BEGINの東京をよく歌っていたことは拙著「流行歌の精神史」にも書いた。だが同年齢の眉山亭
ママは上原が一番好きな歌は、下田悦郎が作り石川セリも歌った「セクシー」だったと言う。

 私は10日に靴箱を整理し昨冬の忘年会で履き間違えた上原の靴をいつ返そうかと考え、これ
は不吉だと感じた。その折にデミアが戦前に歌い岡本かの子が絶賛した「人の気も知らないで」
を思い出し、好き合っていて理解がズレる回想も、好き合っていて一緒になれぬ愛着も同じだ、
上原の悲恋の際には私は正論で邪魔したのかもと思い返した。10日の眉山亭で人の理解も恋愛
の納得にも似た時間の壁があると話し、上原の死報後にもう一度同じ感想を述べていた。

 正規の死因発表はまだ出ないが、上原は肺損傷が引き金となった諸機能不全死のようだ。シル
バーへの復帰環境は整っていてリハビリはやっていたが、他方で酒もタバコもこっそり飲んでい
た。私は自分のオヤジが心不全で努力しても思うように回復せず、私に「死なせてくれ」と伝言
し、二度も点滴コード類を外して死んだことを思い出す。最期に二度も連絡をスルーした上原は、
私に意見されそうで敬遠したのか? 死ぬ気持ちに遠慮は不要だし、文句を言う筈もない。

 ケン君はどんな経緯でも遺骨は握り、自分の墓所に入れると言う。私はケンカ続きの兄貴に、
カンパ金も遺骨も渡すのは拒否し、可能ならば単身者向けの共同墓所を確保したいと考えている。
地元葬儀はシルバー主軸になるだろうが、死後49日の8月末位には上原克己追悼会を東京で行い
「関係のかくめい」の最終編への意見も述べたいと思う。上原よ、長年の交友を有難う!
 

速報:上原克己君死去

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 7月11日(木)16時32分48秒
  ★昨7月10日午後6時前に、沼津の大工M君が打ち合わせのため同業の上原宅を訪ねたら、
テレビをつけ放しの室内で倒れている上原君を発見した「、詳細な経緯や今後の予定な
どは後述します。
 

「続全共闘白書に寄せて~その2」神津陽

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 7月 3日(水)16時17分55秒
編集済
   「続全共闘白書に寄せて~その2」 神津陽

 人間は本能と別に精神世界を合わせ持つ、特異な生物である。言語交通する哺乳類は他にも
いるが精神世界を持つのは人間だけだ。動物はパターン的反応が多く一括して扱い易いが、人
間は歴史を有し民族・宗教・時代・社会生活様式に応じ画一化しては扱い得ない。戦争への学
徒動員の「聞けわだつみの声」でも反戦系編者の方針に一括するなとの反発が出たのだ。

 本書「続全共闘白書」の呼び掛け文の骨子たる<全共闘世代の遺言>は、当時の運動参加者
には青春期の哀歓を彷彿とさせる懐かしのメロディだろうが思想的考察の深さは感じられない。
人間の本能優位の生活圏や行動範囲はごく狭いが、精神世界は宗教・法・国家などを通し世界
大に拡大し得る。人間の共同的関係幅は、共同幻想の強制・抵抗・受容・形成経験で定まる。

 島国日本での地域的共同関係は、柳田国男の言う生涯郷里を出なかった常民が明治期に入り
学校に通い、更に進学し都会の仕事に就く形で拡大した。国家・国民形成と並行した共同的関
係の拡大の背後には、帰り得る親元の故郷が残存していた。この都市と故郷の二重構造を背景
にして日本の近代文学も哲学もさらには革命運動も、その挫折としての転向も生じた。

 だが全共闘は帰り得る郷里と激突し、新たな共同的関係の形成を目指した。例えば私は4年で
中大昼間部自治会書記長になり学生会館闘争に参加しバリケードストの最中にチチキトクスグ
カエレ電報が入り、社学同柴委員長の支援で飛行機経由で四国宇和島に戻り、謀略の匂いに気
付きケンカはせぬが早朝にこっそりトンボ帰りし、闘争最終調印に間に合った。

 その際の裏ルートは中大真法会の先輩で教授で衆院議員だった坂本泰良から、私の母の先生で
宇和島伊達家執事の西村春満経由で、宇和島の勤評闘争を経た元教員の父親に意向が伝わったの
だ。その切り札は私は正義感が強く法学的正論を述べ支持者も多いが、そろそろ手じまいせぬと
大学側の処分が予測され、司法試験勉強や合格後の進路にもマイナスだろうとの脅しだ。

  どんな環境でも本能と精神を持つ人間は、環境に応じた共同的社会を作る。近代は共同的規範
における個的存在と契約尊重が特色だが、前記のような田舎ぐるみの集団圧力は、日本近代形成
の歪みの産物だ。60年安保では<昨日勤王・明日は佐幕>と「サムライ日本」を気取りつつの転
向が生じた。全共闘期にも家・職場・地域圧力は残るが、既に社会基盤は失せていたのだ。

 高等教育は当人の希望か経済的余裕が不可欠なので、学生数は60年安保時に10%、全共闘期に
20%だが、50年後の2018年には短大含め53%だ。かつて学生は社会の木鐸とされ学会、政界、
財界、官公庁や新人会などのリーダーを占めた。戦後学生の主流は左翼で全学連は反米を掲げたが
ソ連をモデルとせず、全共闘は戦後民主主義・高度経済成長の批判勢力として登場した。

 戦後復興は国民的悲願だが先は不鮮明だった。全共闘でも教授会が民主主義を掲げ学生処分する
のは思想的自殺?新憲法に問題はあるが、戦争をしない経験時間の拡大が重要?大学でなぜ体育や
教養科目が必要か?自治会多数決の意見変更はどうするか?投票行動より直接・大衆・自治行動が
大切。授業料を払う学生が望む自主講座を誘致し運営しよう。行動案は多出した。

 全共闘期に日本で初めて親世代が子供より裕福な時代が来た。広松渉は東大生の7割は共産党に
投票したと語ったが、全学連・全共闘をくぐり民主党政権を経て国家に希望を仮託しても無意味
だと誰もが気付いた。今は東大生の親の方が慶応大の親より豊かになり、アホマヌケの類の大
学生の尊敬する人の第一位は両親だそうだ。現在の大学無風状態の責任は全共闘世代にある。

 全共闘世代は戦争世代の親の苦労が報われぬ悔しさを克服するには、立身出世の道を歩んでは
ダメだと考え行動した。だが自由を求めて親や世間や大学に反逆した後に、足下を見ると社会の
屋台骨は壊れ復旧方法が分からない。全共闘白書のように思考も行動も各自の自由と放置する間
に親は死に、自分らは年老い認知症予備軍、子はチャラ音楽・ゲーム・漫画、政治も言論もアホ
ばかりだが、対処方法が見付からぬ。こんな全共闘の<遺言>では屁のツッパリにもならない。
 ★自称、全共闘に最もこだわった書き手の自負は伝わるか? もう一回だけ補足します。
 

7月互助会は4日木曜に大久保tosityannですよ!!

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 7月 2日(火)22時11分17秒
   体調に歪みなく身辺俗事も淡々と過ぎるが、世の中全体の動きがどうも気に掛かる。
事態の変化は世の常だが、なぜそうなるのか、自分たちの心事との関わりが問題だ。
そんな内省にかまけていたら、7月木曜会案内がでていないとの指摘が届いた。
 母の死去3年目の愛媛行きのチケットの具合もよくないのだが、思索深化を主軸に
したい。梅雨情報も多いが、宇和島旧市内は特段の変化はないそうだ。
 

「続全共闘白書に寄せて~1 」

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 6月10日(月)19時44分12秒
編集済
   25年前の「全共闘白書」の執筆依頼は私の所には来ないので、不思議に感じた。私らは
全共闘の活性化を掲げて共産同叛旗を創り、全共闘の停滞が指摘された1968年末のバリケ
ード越冬17大学の半分の主力は叛旗派関係者だった。また72年秋の川口大三郎君虐殺後の
1年間の革マル糾弾・早大解放闘争まで、叛旗派は全共闘に最も拘ってきたからだ。

 全共闘以降50年の節目での今回の「続全共闘白書」は事務局から依頼が来た。前回と同
様に75項目のアンケートがあるが、前回との比較が軸で、新たな参加者は全部に答えなく
てよい。別名でも筆名でも、今回企画やアンケートへの批判があってもよい、形式にとら
われず、全共闘以降50年を回顧し問題点を掘り下げてよいとの合意で、参加を決めた。

 「全共闘白書」は1994年に出たが、76年に自主解散した叛旗系は「叛旗紙全縮刷版」を
刊行し「叛旗<解体>」「<解体>以降」で自分らの軌跡を確認した。また各自が全国で
「月曜会誌」「最後の場所」「言い出しっぺ通信」「越境」「架橋」「燎火」などを出す。
他方で81年「メッセージフロム30s」91年「~フロム40s」、99年には「乱世に声あり~メ
ッセージフロム50s」の論集を出し、毎月の叛旗互助会を40年続けている。

 全共闘の成果に学び、全共闘型党派を作り、党派解体後も初心に固執し、互助会を維持
し議論し表現を続けてきた叛旗系にとって、全共闘は血肉化した思想骨格だ。目配り広く
門戸を開くが、今更ながら過去の表現軌跡を改め付加する必要事はない。50年回顧なら、
まず何冊も出した総括集の一部でも眺めた連中と、生産的な意見交換をしたいのだ。

 右を読んで全共闘当事者でない諸君は、叛旗的な党派言及発言に疑問を持つのではない
か? 世間には<1968年に象牙の塔の東大と学生数日本一の日大で突如として全共闘運動
が始まり、全国に波及し果敢に闘ったが敗北した>との神話が流布されているからだ。だ
が三派全学連の最盛期に、党派と無縁の全共闘なんてどこにあったのか? 私には全共闘
と党派関係の評価抜きの「全共闘白書」企画も、この神話を背景にしていると思える。

 歴史的事象では無から有は生まれない。全共闘前の大衆的学園闘争には1964年の慶大学
費闘争が卒業生の就職問題で中断。67年明大学費闘争は当局と学生側のボス交渉で敗北。
早大学館・学費闘争は全共闘内の党派対立で敗北の前史がある。東大では医学連の蓄積が、
日大では民主化運動の弾圧?史がある。これらの敗北を踏まえて全共闘は登場したが、糧と
し得たのは65年~68年の中大学館・学費・常置委闘争の連続勝利くらいだった。

 他方で山崎博昭が死んだ67年10・8羽田闘争が巨大な70年闘争の引き金だったとの主張は、
三派寄りの神話だ。69年1月の安田講堂決戦の起訴者474名の約9割は党派動員だったと社
学同行動隊長米田隆介が証言するように、全共闘と党派は不可分だった。だが68年2月の中
大学費闘争勝利時に、ブント学対部長の塩見が「バリケードを70年決戦まで続けよ?」と後
の赤軍に近いバカ方針を出して学生に失笑され、叛旗派形成の引き金ともなったのだ。

 今回の「続全共闘白書」呼び掛け人は、全共闘経由者だろうが山本義隆や秋田明大などの
著名人はいない。他方で元党派関係者は、党派と全共闘との関わりの分析もしない。各党派
が揃わぬのはよいが、全共闘時に何をしていたか分からぬ者もいる。全共闘50年の呼び掛け
文が全共闘世代の遺言の共通認識を示さぬなら、執筆者が体験を掘り下げるしかない。

 自己史の体験と表現とその後の思索から、全共闘の新しさ、全国に波及した背景、なぜ自
分は参加したのか、サークルや党派との関係はどう処理したのか。なぜやめたのか、初心を
その後どう活かそうとしたのか。このくらいの自問自答を組み合わせ思想的筋道を示さぬと、
全国で千以上の大学・短大があるのにまともな自治会が一つもない現状の孫世代の若者に、役
立つ遺言にはなりえないのではないか?

 実はこの間パソコンの調子が悪く、書き上げた原稿の保存に二度も失敗した。だが乗り掛
かった船だから、私は三度目の正直に挑戦し自分の体験と環境変化と心の声に誠実に対処し
たい。世界は千年に一度のトンデモ変革期に入り、懐かしのメロディは無意味だ。だが全共
闘体験への固執や共同的関係形成への試みの持続は意義があると考えるからだ。
⇒次回の「続全共闘白書に寄せて~2」は、当然ながら私の体験の掘り下げから始める。
 

6月6日は大久保互助会ですよ!

 投稿者:神津陽  投稿日:2019年 5月30日(木)15時54分35秒
編集済
  ★6月6日は大久保互助会です。5時過ぎにはとしちゃんにいます。伊豆のUHが
下田別荘修復の打ち合わせもあり、支援カンパのお礼挨拶に参加する予定です。

★続全共闘白書原稿の最終締め切りは、6月末に変更になったようです。続全共闘
白書ブログを開くと、呼び掛け文などが掲載されています。自由にダウンロードし
好き勝手に書いて気が向けば投稿してほしいとのことです。

<追補>
★6月6日互助会は、伊豆のUH君や本郷君の友人の4T系S君の自主参加をあり、盛会
でした。「続全共闘白書」に書いた諸君の話では、今回は前回書いた者の原稿がガタ
減りらしいとのことです。
 これも予測されたことなので、私は党派と全共闘の関係にメスを入れぬ、呼び掛け
文の不備を指摘することからの独自展開を当ブログに載せ、白書に転載します。

★パソコンの不調を嘆いていたら、横浜のK君が持病があるのに拙宅に駆けつけて調整
してくれました。有難うございました。他方で札幌のT君はガン闘病中なのに。わざわ
ざ早めのお中元を贈ってくれました。夏のビールは日常嗜好品なので、ビール券は大歓
迎です。
 母親の七回忌までは実家を維持すると、内外に公言したので、また宇和島・松山にし
ばらく戻ります。次にやる調査・執筆仕事の糸口はつかんで東京へ戻る予定です。、

★次の大久保互助会は7月4日木曜で、大久保としちゃんが舞台です。宜しく!

<追追補6・16>
★昨日は大雨の6・15でしたが、新設の中古書活用NPOの打ち合わせで大童。

★今日は鹿児島の冷蔵ウナギが届き、後で父の日だと分かりました。

★弟からの連絡で南空を見上げると、煌々たる満月?の左下が木星とのこと。
この並びは10年ぶりとは初めて知りました。

★吉本が好きだった堀切菖蒲園の菖蒲、また元中川の紫陽花の無料鑑賞も乙ですね。





 

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